Webデザイン 福岡&北九州 : アイ・ディー
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北九州市ではなかなか開催機会の少ない、デザイン関連のイベント情報です。
北九州市小倉北区にある「北九州市立男女共同参画センター」において、北九州市企画政策室の主催により、「北九州デザイン塾」というカンファレンスが、6月22日(火)の第1回めを皮切りに、全3回開催されます。
第1回めは武蔵野美術大学の柏木教授による「ジャパンデザイン」と「ものづくり」をテーマとしたディスカッション。
20世紀、日本のものづくりをリードし、そして現在新たな地域産業を創出しようとしている北九州にピッタリのテーマです。

今後のデザイン塾では、あのau「INOFRBAR」デザイナーでもある深澤直人氏などもゲストに予定されています。
楽しみです。

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第1回 北九州デザイン塾
「ジャパンデザイン」と「ものづくり」

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北九州市企画政策室では、北九州市の技術力等の資源にスポットを当て、「ものづくりに価値を与える行為」であるデザインという側面からものづくりを検討する「北九州デザイン塾」(全3回)を下記のとおり実施します。
今回は「21世紀のものづくり」を展望するために、ゲストとしてデザイン評論家・柏木博氏をお迎えします。
「ものごとの全体を分析し把握しながら、個々の問題を解決していく行為」としてのデザインの役割を論じながら、「21世紀のものづくりに必要とされる人材」のイメージについて、展望してみたいとおもいます。

どうぞふるってご参加下さい。


■開催概要

日時:平成16年6月22日(火)15:00〜17:00

会場:北九州市立男女共同参画センター
   〒803-0814 北九州市小倉北区大手町11番4号

テーマ:「ジャパンデザイン」と「ものづくり」

講師:柏木 博(武蔵野美術大学教授)
   桂 英史(コーディネータ 東京藝術大学助教授)

参加料:無料(ただし事前のお申込が必要です)

申込締切:平成16年6月17日(木)

お申込、お問い合せ:北九州市企画政策室企画政策課
          「北九州デザイン塾」係(担当:中原田、神野)
          〒803-8501 北九州市小倉北区城内1番1号
          電話 093-582-2302
          FAX 093-582-2176
          mailto:kaori_nakaharada01@mail2.city.kitakyushu.jp

■講師プロフィール

●柏木 博 (かしわぎ・ひろし)
武蔵野美術大学教授/デザイン史・デザイン批評
1946年生。武蔵野美術大学卒業。
視覚的なデザインや空間のデザインを通して、近代の思考や感覚を読み解く作業を続けている。インダストリアルデザインから都市テクノロジー批評など幅広く論じる。また、国内外で、多くの展覧会を企画している。主な著書に「近代日本の産業デザイン思想」、「デザインの20 世紀」、「モダンデザイン批判」などがある。

柏木博さんについて紹介しているサイト
http://www.raymondloewyfoundation.com/jp/interview/kashiwagi.html


●桂 英史 (かつら・えいし)
東京藝術大学助教授/情報学・文化研究
1959年生。図書館情報大学大学院修了。
データベースやアーカイヴの構築を実践しながら、近代以降の社会思想とメディアテクノロジーが知のあり方に与えた影響を考察している。近年にあっては、コミュニティにおける財と権力の再配分をテーマとして、国内外で、新しい公共文化施設のプランニングに携わっている。主な著書に「人間交際
術」、「東京ディズニーランドの神話学」、「インタラクティヴ・マインド」などがある。

桂英史さんについて紹介しているサイト
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0236350/top10.html

written by fukiage : 2004年06月09日 12:33 | trackback
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 先日のデザイン塾は、セミナー室が満室の状態で驚きました。デザイン関係?の学生さんとお見受けできる方々も多く、これからの北九州市の変化を期待します。それを支え続けようとするならば行政にも好感がもてます。
 第1回の内容は、知識不足でわからない部分もありましたが、ものから、建築、都市、行政、法律、教育、エコロジー、現在の閉息感のある世情のことなどまでに広がりがあったところに、逆に「デザイナー」や「エンジニア」や「テクニシャン」や「専攻学生、生徒」以外の一般素人にも参画できそうなオープンさを「デザイン」に感じました。

 以下長文ですが、あの雰囲気を思い出しつつ思うところを書きます。

●ものづくりのまちが、ものがたれるまちになるために

*まちはできていく、わからないうちに ...?っ
 「デザイン」だけでなく特に専門性の高い分野に関わるひと達は、知識や経験や技能を身につけるための過酷なトレーニングや実務に進んで身を投じていると思います。
 それを本当に支えている「最大最高のご褒美」とは、報酬や権威からの評価や名誉などではなく、なにかをつくり出す過程と失敗の克服と達成からしか得られない、ぞくぞくするような喜びの体感ではないかと推測致します。
 なので、「デザイナー」は、ほんとうに良識、常識をわきまえた、(でないと非常識との区分が出来ないから)人間味あふれているなじみやすい方々だと思います。でも、一般的には、わたしたちの方が敬遠しているふしがあるかもしれません。(「つやつけちょーし(博多弁?)」、みたいなかってな決めつけ)
 しかし、職業としてデザイナーを選択しなかった、出来なかったわたしたちも、デザインのちから?をつけて、専門家としてのデザイナー達と意気投合して(実体としての生活すべてを包含する意味の)「まち」を育んでいけることが重要になっている気がします。
 わたしたちが、まちを鮮明にイメージできて、そのイメージを具体化するためにしかるべき人々の手を借り、わたしたちがまちの完成度を高め続けるサイクルのことを「まちへの参加のデザイン」とすると、それはわたしたち一人一人に、まちの自己所有化感覚を引き起こすでしょう。そして、他地域に優越しようとするばかりの郷土意識とは違う、生活するまちへの愛着に結びつくと思うのです。その愛着が、まちがよくできていくためのベースになると思います。

*ひとはみなデザイナーの子孫
 今更、専門家の能力をわたしたちに移植できるなど考えられませんが、わたしが想定している、もの、ことをつくりだすときに感じることができそうな「ぞくぞく感」は、職業、職能を超えて誰もが共有できる、根源的なものと思います。これが、専門家達とそれ以外の老若男女が融合できるための土壌ではないかなと思います。
 ホモモーベンスは、建築家の黒川さんの造語だったように思いますが、人類の呼称で、それぞれにつけられる中のわたしが一番そうだと思えるのは、「ホモハビリス」です。ハビリスには、「手先の器用な」とか「ものをつくる」、「できる」という意味があって、いまはやりの介護やリハビリにも関連があると知りました。それは化石類人猿の学名のようで、われわれの直接の祖先ではないにしても、その遺伝子がひとすべてに秘められていると信じます。つまり「ものづくり」とは、ひとがひとであるための素養であると思うし、つくることによってわき上がる喜びの本能がひとには必ず組み込まれているはずです。ただ、先天的なホモハビリス性に強弱があったり後天的な環境で、明示的に「デザイナー」となれるひともいれば、職業的にはデザインや製造とは関係ないけれどプロさえ凌駕するような素人がいたり、まったくダメそうなひとなどさまざまに分かれているように見えるだけでしょう。

*ものへの愛着の変化 
 生活の中で「もの」は必須ですが、わたしたちとものとの関係がどんどん希薄になっているように思います。これだけものがあふれていると、需給と価格の鏡面対象的なグラフ曲線のように、1つのものに備わっている絶対的な大切さの量は(価格ではないから)一定のはずなのに、どうしても、その大切さ自体がどんどん小さくなったり無くなっているかのように錯覚してしまいそうになります。だから、捨てることにたいする引け目みたいな気持ちも小さくなってしまいます。一方で、ものがゆたかになってきた、とはよくいわれますが、そうかなとも思います。ゆたかというのは量と選択枝であって、一品一品の価値までもがゆたかになっているとは思えません。これは錯覚ではないと思います。愛着があって、それがなくなると、普通の元気すらしぼんでしまうようなものがはたしていくつあるのでしょう。それらは、価格や希少性との関連はあまりなくて、それぞれ所有者のこころや感性と共振しあえるもののことです。むかしは(そんなに昔ではないですが)、ものの希少性があまりに大きかったから、こころと共振しあうほどのものでなくても「もったいない」感はかならずといっていいほど持てていました。それがために、ほとんど消滅してしまうまで使い切ってしまわれることも多かったように思えます。いまはそんなことはほんとうに少ないでしょう。子供たちはいつでも使用不可能にしか見えない「意味不〜」なガラクタを隠し持ちますが。
 もう一つ、ものとの関係が希薄になることを強化しているのが、ITの発展といわざるを得ないと思います。携帯電話は、かっこいいのも多くて、小さくて手になじむし、肌身離さず持っていて、ともすれば四六時中使用してしまいがちなものですから、愛着が湧いて、誰からなにを言われようと同じものをずっと持ち続けそうなはずですがそうではないようです。そのことにずっと疑問を持っていましたが、ものとはなんぞやということを考え続けているうちにようやくわかってきた気がしています。なくなって困るのは、中のコピー可能な個別情報と、提供されるお好みのコンテンツが使える機能と携帯ネットワークのシステムだけだからです。ものとしての携帯は、それらをひっくるめる薄っぺらい表皮です。いくら高度な加工、彩色技術、部品レイアウトの秘技が盛り込まれていたり、かっこいい意匠がなされていても、エルゴノミクス的な配慮がなされていても(それが行き届いていればいるほど、使用に際しての違和感がないから、よほどのことがないかぎり配慮自体に気づけない)、嗜好の変化をのりこえられるほどの愛着を呼び起こせないんだと思います。

*「第二次産業」や「教育」と「ものづくり」を分ける
 欲しくなるものやことが簡便に安く手に入れられる現状は維持しなければなりません。一方では、前述のような錯覚を起因とするような弊害や、将来への禍根めいたことへの対応も念頭においたしくみの創案に、せめてとりかからなければならないと思います。ものへの愛着が希薄だとしましたが、多すぎるものの提示の波に流されるわたしたち消費者が浪費者とも呼べそうだと思うだけで、一片の愛着もなく生み出されたものはないと思っています。作り手側になれば常にものに愛着をもちえるのだと思います。
 わたしは、NHKの「プロジェクトX」や「ようこそ先生〜課外授業」に涙腺をしぼりとられているおっさんのひとりですが、作り手側のものへの愛着やこだわり、その苦しみつきのよろこびを後進に継承させようという熱意はずっと不変だと思います。また、作り手側をめざすひとの増大と能力の更なる飛躍を願い続けますし、作り手側を引退した方々にも敬意を表するひとりです。
 私事ですが、わたしは街場の小売り屋のこせがれが大きくなって家業を継いだくちで、店舗改装でデザイナーや職人さんたちと接することがあります。想いを伝えられなかったり、拡大しがちな経費の防戦のために天井にもぐりこんで実測し、模型化して実現をせまったあげく、ばかにされたり、CADで自作したモデルを媒体に、話を擦った揉んだすることがあります。そのときはお金がらみのこともあって夢中で気づかないのですが、支払いのときにくやしく思うのは、つくるというこんな「おもしれ〜」ことをお金までつけてもらえる仕事にあこがれている自分のなさけなさです。隣の芝生は青くみえがちで、わたしが隣にいったら枯らして茶色くさせてしまうという、決定的なリスクが転職の暴挙、妄想を押しとどめています。
 照れ隠しの冗談めかしはさておき、「ものづくり」がいろんな切り口ではありながら、「産業」という「営利」とからむ危機感との関連でしか語られていないように思えます。また、「教育」やNPO団体の「啓蒙」活動も評論的なレベルでは、やはり「日本の産業や科学技術の発展」のためになる、ならないが視野に見え隠れしていることを感じます。「ものづくり」は、専門性にも特殊性にもからめやすいですが、そのように矮小化してしまうにはあまりにも大きくて、普遍的なものだと思います。おーざっぱに言えば、「くう(稼ぐ)」、「ねる(休養)」、「あそぶ(自己実現)」という三原則に追加できるくらいふつうにあるべきでしょう。
 「あそぶ」というのは、用意されたレジャーやゲームなどに「あそばれている」だけのことに気づくことが多いのですが、なにかをみつけたり、つくりだす行為のことではないでしょうか。「ゆたかに提供されている」いまは「あそぶ」ことすら難しくなってきてはいないでしょうか。「ゆたかに提供されている」体制が、「あそぶことができる」環境を駆逐しているから。また高度?な教育システムも、強いて勉めなければならない勉強の習慣を身につけるだけのようで、学んで問うたり習うという学問や学習のたのしさを伝える場であることがなかなか難しいようです。

*ものづくりのためのアミューズメント環境
 ドイツのクラインガルテン(市民農園)の紹介を、新聞で読んだことがありました。千葉大の園芸関係の教授のお話で、要旨は、多くのひとびとを引きつけるそれ自体の魅力は無論のこと、百数十年にわたる普及の努力と法制化によるサポートが環境先進国ドイツの基礎となっている、ということでした。日本でも近年そういう事業体ができたりして、北九州市内にも散見されるようになってきています。やはり、いろいろな思考実験をくりかえすよりもそのような実例の模倣を「ものづくり」でもはじめるべきではないでしょうか。百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず、です。
 「製造」は「営利」がらみでは、どんな配慮をしても厳しくて単調なだけの行為かもしれません。しかし、低経験者が起こしうる「失敗だらけ」を前提とする高度な対策をすりこんだ製造環境を構築でき、「事故」に対する最大限の配慮とサポート体制をバックグラウンドに持ち、「自由な運用」が可能な柔軟な管理体制が常設できれば、ものづくりはアミューズメントとして生活のなかに浸透しうると思います。逆にそのような体系の創出が無理なので、趣味的な範囲にとどまっていたり、魅力的ではあるけれども、散発的な活動しかなしえないのかなぁと思えます。
 しかし、常設のものづくりアミューズメント体系を実現するためのクラスターとなるものは、関連する分野でそれぞれ高度に実現されているはずです。それらを新しく大きくコーディネイトしなおす動きが欠けていることが最大の壁だと思います。北九州が他地域にくらべて人的資源が豊富ならばその蓄積自体が最大のアドバンテージとなり得ます。資金的なネックは大きいとも思いますが、その一部は、企業からの不要機材の移譲などで低減できる部分もあろうかと思います。日本の行政にパトロンとなってよ、といっても受け入れられないでしょうが、さまざまに漏れてくる「お金」の自由きままな使いようを知らされると、日本における最大のパトロンが行政であることは間違いないでしょう。であるなら、義務的経費に窮々としているふりをせず、いきなり事務的にならずに、おおらかに無駄使いしてよ、無駄使いできるような体制づくりに汗と知恵を絞って!って言いたくなります。
 有名なビルゲイツは生徒時代、コンピューターがなんとなるかもわからない時代、PTAが提供したコンピューター使用料を結果的に独占して(ほかに使うやつがなかった)いまになったといいます。PTAが最大のパトロンだったわけで、なんらかの文化が熟成するには、必ずパトロンの存在が不可欠なのは歴史をふりかえってみてもあきらかです。ものづくりに産、官、学の興味が改めて集中している現在は、プレゼンの仕方にもよるでしょうが、我田引水のための機は熟せりではないでしょうか。

*ものづくりスタジアム
 わたしは、家屋内の粗大生ゴミともいえ、住んでいるマンションで更にゴミを増やすことなど、おっ家内が許すはずもなく、園児のときは興味を示していた子供すら今では一番図工が嫌いなんだそうです。普遍的なものづくりの魅力に想いを馳せる一方で、そういう現実的な障害がものをつくることからわたしを引き離しています。そんななかでわたしは、大昔に考えていた、まちに「市民工房」みたいなのがあったらいいなぁということを切実に思い出していました。いろいろな経緯で、ものづくりについて語れる知人も得たところ、防水屋さんと車屋さんと広告屋さんの三人が、そのアイデアを、「ものづくり市民サポーター」、「ものづくりアカデミー」、「ものづくりスタジアム」という三本柱で再構築してくれました。それぞれが、ハートウェア、ソフトウェア、ハードウェアに対応しています。興味をもつ個人はもとより、いろんな機関、団体の利用も想定できると思っています。
 出来てしまった施設はイメージの伝達には役立つので使うと、立地や規模からいうと「リバーウォーク」です。景観的にはさまざまな批判もあるようですが、わたし自身はあまり気にならないので例えにします。茶色の棟は総合的な木工加工棟で黒いところは金属加工棟、赤はプラスティックス用、白はテキスタイル用だな、などと見えてしまいます。デジタル工房も現代では不可欠でしょうし、レストランや銭湯もあるといいな。ギャラリーも必要か。などなど。あれが市内全体の拠点施設で、公民館などは軽便な加工、組み立て機能ももつようなサテライトと位置づけます。
 小学校や幼稚園などに、かっこいい塗装のクローズドボディの大、小の特殊機能トラックも出張屋台工房として必要かもしれません。「ものづくりスタジアム」等は、それ自体は結果ではなく手段にすぎませんから、なかなか理解をえられないしろものでしょう。いろいろな方々がこねくりまわす必要があります。
 家庭内の生活具の制作から街の公共物、ストリートファニチャーなどの実制作と展開など住民自体が直接まちの表層づくりにたずさわることもできるかもしれません。手作りのイベントなどもそうでしょう。手慰みがわりに素材と格闘するのもよいかもしれません。ハンディキャップをもつ方の自助具などは特注性のもっとも高いものでしょうから、本人はもとより、家族や友人が共同してつくりあげるほうがよい部分もでるかもしれません。そうして、できあがったものには実際の体験の記憶があることと、ほとんどすべての行程にたずさわっているので、完成度の低い部分も致命的な欠陥でなければうまく使いこなそうとする意識がはたらき、なんとなくなじんでしまうかもしれません。ひとつひとつのものについてわたしたち自身が容易にものがたれるようになるのです。
 住人それぞれがゆめをかたちにできるまちはへんてこなまちになるのでしょうか。どうだかはわからないけれど、ものをつくり、おもいっきりものがたれるよろこびで、あかるく社会の閉塞感を打ち破れればとよいと思います。

*おしまい
 手で考えることを失ったからと思える弊害を2つ。
 ひとつはバブルです。実態から遊離してしまい、ものにはすべて物理的な制約があることに実感をもてず、お金も記号としか感じなくなったひとびとの増大が引き起こしたのだと私自身は結論づけています。金融は絶対に必要ですが、実態や現場に興味をもてなくなれば「虚業」にすぎ無くなってしまう。銀行は融資のかわりに同価値の担保を求めます。しかし、バブルではそれすら見極められなかった。原始的な「物々交換」すらできなかったということでしょう。疑問を持っていたひとびとは、もしかしたら、幼いころよく手で考えてあそべていたのかもしれない。これが証明できるとかなり持論が強化されるかもしれないのに!
 もうひとつは某自動車屋(メーカーとはわたしは呼べない)の不祥事です。故本田宗一郎氏や相棒の藤沢氏のような典型的な「実業」家がトップ層を占めていれば対応が違ったはずです。どちらも(藤沢氏も本田氏と出会う前、製造を営んでいて)現場に深く携わっていたから、ものづくりの厳しさに鍛えられた哲学があったと思うし、必ず発生する欠陥とそれが引き起こすことの理解が身に染み渡っていた方々だと思います。おそらくトップに必須の素養は能力ではなくそういった感性だと思います。

 ひとが心に感じるのは突発的でその時を予想できない、頭で考えることは意識さえすればできる。それらを昇華させるには手で考えること以外にない。ただし、手で考えるためには実体的な環境が必須です。それは、錯覚という事実にだまされそうになる脆弱な生活から抜け出すためのパスポートのような気がする。

 もし、最後まで読んでいただけたならとってもうれしい!共感できる部分が少しでもあったらもっとうれしい!!アルコールも少し効いてきたのでやめようと思います。

posted by : 井澤元博 : 2004年06月27日 00:22

井澤さま、コメントありがとうございます。
私も時々デザイン関連のセミナー等を催しますが、集客等を考慮すると、どうしても会場は福岡市になりがちでした。今回、北九州市で180名もの人々が「デザイン」をテーマにしたイベントに集まったということに、私も大変驚きました。北九州市における「デザイン」「ものづくり」への関心の高さが伺えました。この熱気が北九州市の活性化につながっていけば、と思っています。

クリエイティブ・マインドは誰もが潜在的に持っているものです。人はものを「創る」という行為を通じ、子供から大人まで、世代に関係なく多くを学び、成長していくものと思います。
創る行為を重ねることで創る経験則(ヒューリスティック)を身に付け、その「創る力」が仕事となり、産業へと発展していくものではないでしょうか。

ところで、私はデザインは「計算(理論)」と「経験則」で成り立っていると考えます。
ここでいう経験則とは、「優れたデザインに触れること」と「自ら創ること」による積み重ねです。
もちろん感性も大切ですが、感性は経験則によって磨かれるものです。経験の積み重ねが、優れたデザイナーを育成するには最も必要です。

北九州市は、ものづくりの素地の整った都市であると思っています。その北九州市に多くの人々がしっかりデザイン理論を学べる場が生まれ、多くの優れたデザインに触れる機会が設けられ、そして市民が日常からもっとものづくりに取り組めば、北九州市が21世紀的な新たなものづくり都市として再生する可能性も高いと考えています。

「ものづくりスタジアム」面白い企画ですね!
情報デザインの分野で私もなにか地域に貢献出来ないか・・・と常々思っているところです。

posted by : fukiage : 2004年06月27日 01:29
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